四電工60年のあゆみ
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26高橋滋夫社長「チャレンジ’88」の説明会が高く、景気の回復は遅れがちであった。また、省エネルギー化の進展が電力需要の伸び悩みにつながり、配電設備の近代化が一段落した1982(昭和57)年度頃から、四国電力の設備投資は減少し始めた。さらに、財政再建を目指す政府は公共投資の抑制に転じた。 こうした要因が重なったことで、同年度は設立以来初の減収減益決算となり、業績は1987(昭和62)年度に増収増益を回復するまで5年間にわたって低迷した。 こうした厳しい経営環境のもと、1981(昭和56)年7月に就任した高橋滋夫社長は、「当社の今後あゆむべき方向性について、戦略的指令を出さなければならない時期にきている」と述べ、中期経営計画(1984(昭和59)~1986(昭和61)年度)を発表した。計画は、①市場の拡大、②新分野への展開、③コストダウンと企業体質の強化、の3項目を骨子としていた。 計画策定に先立つ1982(昭和57)年5月には、組織改正を実施し、支店建設工事課を廃止して、本店建設部直属の「建設所」を設置した。また、A級設備センターをA級営業所に統合した。 続いて、翌1983(昭和58)年11月の改正では、本店の「営業部」と「工事部」(設備部を改称)の業務分担を見直した。支店の営業部と設備部を統合して「営業部」に一本化、特A級設備センターを廃止して「内線工事課」と「管工事課」を設置した。さらに、材料の集中購買を本格的に推進するために、総務部資材課を「資材部」に昇格させたほか、社長直轄の「開発室」を設けた。 1985(昭和60)年、中期経営計画を実行していく方策を探るべく、2つのプロジェクトが発足した。 1つは、社長の諮問機関として立ち上がった「長期ビジョン研究会」であり、「当社の10年後のあるべき姿とその実現に向けての道筋」をテーマに、本店・香川支店の若手10人が4月から10月にかけて検討を重ねた。もう1つは、「ニュー四電工躍進プロジェクト」で、経営トップ層を含む本店メンバーと社外の経営コンサルタントが、既存事業の活性化と新事業の企画・立案について8月から半年間、検討を行った。 1986(昭和61)年5月から、両プロジェクトの最終報告と、同年に終了した中期経営計画の結果を受けて「チャレンジ ’88」がスタートした。 「チャレンジ ’88」 は、未来適応型の「ニュー四電工」を創造することを目的とした経営革新への挑戦運動だった。1984(昭和59)年策定の中期経営計画は毎年計画を見直すローリング方式だったが、「チャレンジ ’88」は原則として見直しを行わない固定方式を採用した。また、「何を、誰が、いつまでに、どの程度、いかにして成し遂げるか」を掘り下げ、実行できるレベルまで計画の精度を高めた中期経営計画の策定と組織改正経営革新に向けたチャレンジ

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