1989(平成元)年2月、当社は、新たな中期経営計画を策定した。その中で、「今世紀中に1,000億円企業への躍進を目指す」ことを基本方針に掲げ、①戦力的な営業展開による市場開拓、②多様化、高度化する市場動向に即応する技術・施工力の強化、③ニュー四電工としての新たな企業イメージの確立と従業員の意識改革、組織の活性化――を課題として挙げた。 翌1990(平成2)年4月には、中期経営計画の実施に向けての組織改正が実施された。 まず、一般部門では、営業所の現場代理人を拠点営業所や支店に配置し、県都や東京、大阪の大型工事に投入できる体制を整えた。また、四国外工事の受注拡大を図るため、大阪支社を「大阪営業本部」に昇格させた。 配電部門では、4支店体制から8支店体制に移行した四国電力の新支店との対応が円滑に進むよう、28と個人消費を両輪とした、後にバブル景気と称される内需主導型の景気拡大が始まった。建設業もにわかに活況を呈し、公共工事が大幅な増加に転じたほか、首都圏など都市部でオフィスビルやマンションの建設が急増した。 四国でも、高速道路の建設や空港のジェット化、瀬戸大橋(児島―坂出ルート)開通などといった高速交通体系の整備によって先端技術産業の立地が進んだ。また、瀬戸大橋効果と呼ばれた観光・リゾートブームが追い風となり、他地域に匹敵する経済成長を遂げた。 そのような状況下で、「チャレンジ ’88」は目標を上回る成果を上げ、当社の業績は低迷を脱した。1986(昭和61)年度こそ、設立以来二度目の減収減益だったものの、1987(昭和62)年度から5期連続で増収増益を記録した。 1988(昭和63)年には、1株946円の発行価額で400万株の公募増資を実施し、約37億円を調達した。その結果、資本金は15億5,925万円から現在の34億5,125万円に増加した。池田、中村、宇和島、新居浜の各営業所を「配電支社」に改組した。 さらに、部門責任体制を徹底するため、営業所を建築設備工事専業の「営業所」と配電工事専業の「配電工事センター」に分割した。 また、研究開発本部は、従来の研究開発活動から既開発事業の推進に方向転換し、名称を「開発事業本部」に変更した。 1986(昭和61)年度から1991(平成3)年度までの当社の業績は、売上高が475億円から714億円へと約1.5倍に拡大、経常利益は19億円から48億円へと約2.5倍の伸びを示した。 その間の業績伸長の原動力は建築設備工事の躍進だった。工事の大型化が進む中、戦略営業、組織営業による好採算性工事の受注、VE(Value Engineering)手法による原価低減など、さまざまな取り組みが成果を上げた。その結果、売上高の平均伸び率は、送配電設備工事が3.6%だったのに対し、建築設備工事は13.8%という高い数字を記録した。また建築設備工事の地域別売上高は、四国内が1.8倍、四国外が2.6倍と、四国外事業所の健闘が光った。1,000億円企業を目指して建築設備工事の業績伸長育ち始めた新規事業 以前から進めていた新規事業開拓も、この時期にいくつかが実を結び始めた。 その1つが、富士通株式会社と共同開発した設備設計CADソフトであり、1987(昭和62)年7月、「CADEWA」の商品名で全国販売を開始した。1989(平成元)年には、電気・空調・給排水のトータルシステムのソフトも完成し、目標の2倍の売り上げを達成した。また、社内でも活用され、設計業務の効率化に寄与した。 水処理関係では、産業用水処理装置「バイオスマッシャー」を1987(昭和62)年度から全国販売したほか、1990(平成2)年10月、キリンビー
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